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新緑の海龍王寺

奈良

天皇家の私寺院

710年、平城京に都が移された時藤原不比等がここに邸宅を構えました。

その後720年、藤原不比等が亡くなり娘である光明皇后が邸宅を相続したことから皇后が起居する皇后宮となり「皇后宮内寺院」となりました。

734年に唐へ留学していた玄昉が東シナ海で暴風雨に遭遇し漂流しながらも海竜王経を一心に唱えたことで九死に一生を得て種子島に漂着し、翌735年に平常宮に戻りました。

その後聖武天皇、光明皇后は最新の仏教、仏法のみならず、鎮護国家の基礎となる仏教政策も学び取ってきた玄昉からいつでも自由に意見を求めるため、内裏に近く、自身が起居する皇居宮内にある海龍王寺の住持に任じます。

そうして伽藍の拡充や経典を充実させ、密教にも通じていたことから聖武天皇・光明皇后の生母である藤原宮子のために祈祷を行ったことから天皇家との関わりが非常に深くなった海龍王寺は「天皇家の私寺院」隣「宮廷寺院」として天皇家を支えてきました。

奈良時代は大変繁栄しましたが平安京に都が映ると平城宮の衰退と並ぶように海龍王寺も衰退しました。

鎌倉時代に復興が進められ、戒律の道場として栄えます。

1365年から1766年の間。海龍王寺から5名の西大寺長老を輩出し、真言律宗の中でも筆頭格の寺院になりました。

鎌倉時代は戒律の道場として栄えたものの、室町時代の応仁の乱の影響を受け、江戸時代まで衰退が続きました。

江戸時代になり徳川幕府から知行百石を与えられたことで伽藍の維持、管理を行ってきましたが、明治の廃仏毀釈の際、東金堂などを失い大きな打撃を受けました。

その後昭和28年まで荒廃していましたが、昭和40年から42年にかけて西金堂、経蔵の解体修理を行い現在に至ります。

緑が多くとても綺麗な境内です。

 

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国宝五重小塔と重文西金堂

光明皇后宮内に残る唯一の奈良時代建造物であり、宮廷寺院の伽藍を現在まで伝えています。

通常、寺院には高さ数十メートルの大きな五重塔があるのが一般的ですが、海龍王寺は飛鳥時代から立っていた寺院をもとに創建されたことに加え、光明皇后の住居内という限られた敷地内に大寺院の伽藍の形式を持ち込まなければならないという困難な状況にありました。

この条件に合うように五重小塔を建立し、東金堂(明治初年に喪失)と西金堂の中にそれぞれ納めたのではないかと考えられています。

五重小塔は4.01mで屋内で拝んだり見たりするであろうことから見た目の工芸的な性格を非常に重視しており、上層部に行くに従って細く作られ、上層部と下層部の均整を重視した寸法になっています。

西金堂(重文)

左が西金堂です。

創建当初からの唯一の建物です。

この中に五重小塔があります。

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表門(室町時代)

表門の位置は平城京の東二坊大路に面する位置にあり、四脚門です。

参道はとても美しく奈良の寺院らしい特徴を残しています。

Camera
SONYa6000
Lenz
Vrio-TessarT*E 16-70m F4 ZA OSS

 

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Published in奈良

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